さて、前回までは写真を撮るときに意識を向けて欲しいところとして、影と光の話をしました。
かわいい!と思った瞬間を撮っているのに、どこか垢抜けない。
そんな写真を卒業するカギとなる、「距離感」がテーマです。
できなくても思い出写真を撮るのには困りませんが、自分の写真をSNSなどで広く共有したい、ガチで上手くなりたい、という方には、避けて通れない道でもあります。
今回はちょっと深めに突っ込んだ話になります…!
読むときの状態によっては、少ししんどくなることもあるかもしれないので、心配な方は、元気充電してからお読みいただくか、ここから5日目の投稿までは飛ばして、その先をお待ちください。
ポジティブマインドでおつきあいいただけたらうれしいです!
垢抜けない写真の原因とは?
かわいい笑顔、上手に作れた料理。モノは悪くないはずなのに、なんか違う感。。。
理由は分からないけど微妙感が漂う、どこか悲しい、垢抜けない写真。
自分の写真に限らず、感じたことがあるのではないでしょうか。
「垢抜けない」
それは、なんとなくダサい、野暮ったいという意味の言葉。
この言葉の核となっているのは、自分の好みを中心とした狭い感性しかなく、時代の空気感のようなより広い客観的な感覚に欠ける、ということ(だと思います)。
写真の距離感においても、これと似たことが言えます。
写真を撮るときは通常、自分の興味と感覚に従ってカメラを構えます。
あるいは、とりあえず立っている、自分がいる場所でカメラを構えます。
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こんな感じで、サクっと垢抜けない写真の完成なのですが、この流れを導いているものは何でしょうか?
それは、自分中心の、自分の好みを中心とした感性です。
大半の場合、それに従って一直線に進む道は、垢抜けない写真につながります。
「ちょっと待って!そういう自分の感性に従って撮ってこそ、いい写真になるのでは?」
こう思われる方も多いのではないでしょうか?
わたしも写真を始めたての頃は、そう思っていました。美しいと思う、自分の心に耳を澄ませてこそ、いい写真が撮れると…。
もちろんその自分の感性で撮った写真がベストポジジョンである、という可能性もあります。基本技術と感性を磨いてきた方なら、その可能性は高いでしょう。
けれどもここで、忘れてはいけないことがあります。
感性には、自分の価値観というフィルターがかかっているのです。
「親バカフィルター」の不都合な真実
自分の価値観、というフィルターは誰でも持っています。持っていてはいけない、というものではありません。
しかし、どこか垢抜けないと感じられる写真しか撮れない状態を、もし卒業したいなら、このフィルターに気づき、コントロールする必要があります。
特に自分の子どもの写真を垢抜けた写真にしたいのなら、これは避けて通れない道でもあります。
なぜなら、わたしたち親は、地上最大レベルで強力なフィルターの助けを借りて、この子育てという一大事業に向き合っているからです。
そう…、
それはその名も名高い
_人人人人人人人人人人_
> 親バカフィルター!!!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
親であるわたしたちの感性を覆い尽くしている、このハンパない強力な補正の呪縛から、自由になる必要があるのです!
不都合な真実ですが、正直に言います。
カメラは機械です。カメラで記録した画像に、そのフィルターはありません。もちろん、自分(の家族)以外の誰も、持っていません。
それに気づかないまま、自分の感性を通して写した子どもの写真は、他の人にとっては「垢抜けない」写真になりやすいのです。
スマホのレンズの特性をつかむ
この強力な親バカフィルターを外す=垢抜けない写真の罠から逃れる方法、その一番簡単な方法はカメラのレンズの特徴を知り、表現にあった距離感で写真を撮ることです。
カメラはそのレンズの焦点距離によって、写り方が違います。
- 広い範囲が写る「広角系のレンズ」。
- 見たままの距離感でうつる「標準系のレンズ」。
- 遠くのものがアップで写る「望遠系のレンズ」。
スマホの場合は機種によりますが、基本的に「広角系のレンズ」が使われています。
広角系のレンズは、広い範囲が写るがために、カメラを構えたとき自分が見た感じより物が遠く、小さく写るように感じます。
そのため、カメラを起動した後、画面に撮りたいものが小さく写ってしまうことになり、もっとしっかり写そうと、カメラを被写体に近づけがちになります。
カメラを近づければ物は大きく写ります。
そしてそれは、標準系のレンズや望遠系のレンズで撮った見え方とは違います。
広角系のレンズは、より広い範囲を画面に収めるというレンズの特性上、距離感が強調され、形が歪んでしまいやすい。
近づくほど、手前にある物は大きく誇張され、遠くのものはとても小さく見えます。
スマホで撮るときは、距離感が見た目より強調される。これを覚えておいてください。
「親バカフィルター」の正体
広角レンズによるこの距離感が強調された見え方は、見る人に動きや迫力を感じさせます。
それは、ちょっと生々しい、主観的な見え方。
自分がそこにいるリアル感、被写体の存在感を感じさせる表現です。
広角レンズで近くのものを撮ることによって生まれる、距離感を誇張したものの見え方は、被写体がまるで目の前にいるような感覚を、見る人に与えます。
わたしたちは、原因はこれ!と言い表せなくても、自然ではないものに違和感を感じたり、その根底に流れる意味を感じ取る、という話は前回も触れました。この自然さは、距離感にもあります。
見る人が持っている、写っているものとの自然な距離感です。
想像してみてください。自分の子どもと親である自分の「自然な距離感」って、見知らぬ子どもとの「自然な距離感」と同じでしょうか?
同じではありませんよね?自分の子はより近く、よその子はより遠いと思います。
目に入れても痛くない。なんならドアップでもいい、どこからどんな距離から撮ってもかわいい。
すなわち、親が子どもの写真を撮るとき、距離感は麻痺している。
見る人にとっての自然な距離感が見えない。
これこそが「親バカフィルター」の正体です。
見る人に、見せてはいけないもの。
親バカフィルターを通して見た目で写真を撮ってしまうと、見る人にとっての自然な距離感を意識できず、スマホカメラの広角レンズで、近すぎる距離感を強調してしまいがちになります。
親の自分が自分の子を「かわいい」と思う距離感で撮った写真は、それをよその子の写真として見る相手にとっては、多くの場合「不自然な距離感」です。
近すぎる、圧を感じる、心理的に違和感を感じさせてしまう。
その不自然さによって、見る人は自分を撮影者の位置に重ね合わせることができず、むしろその位置にいたであろう親の存在をうっすら感じてしまいます。
(ほんっと、子どものことが大好きなんだなあ〜)
と、かわいさの共有とは別の意味で、好意的にうけとめてもらえることはあると思います。
ただ、見た目の印象としては、撮影者の位置に見る人が入り込めず、撮影者の存在がむしろ見えてしまう。
隠しきれないプライベート感。親子という生っぽい感覚。
それが強調された距離感によって見る人に伝わり、どこか垢抜けない写真と感じさせるのです。
ちょっとせつない事実を受け止めて、深呼吸。
本質的に写真そのものに、いい悪いはありません。悪い例として出した上の写真も、背景を知っている親のわたしにとっては、当時を思い出すフックとライブ感に溢れた「おきにいりの写真」です。自分の当時のいい加減さ、親バカ感が溢れているところが、むしろポイント高いです。
でも、これは「わたしにとっての写真」の話。わたしも、わたしの子も知らない相手とは共有していない情報があってこその印象です。
「写真に撮る人らしさが写る」、「その人の内面が反映される」
これも、写真を撮るときには、一般的に「いいこと」と捉えられていると思います。
でも、これはその「らしさ」や「内面」を見る人と共に分かち合えてこそ。
写真を撮った人、写る人、見る人との間にある関係性のなかに存在する価値なのです。
さあ、思い出してください。
世界で親と同じくらい、自分の子を愛し、同じようにそのかわいさに悶えている人はいるでしょうか…?
答えはお察しの通り。残念ながら、いないはずです。
誰よりも自分が自分の子をかわいいと思っていること。それは誇れることです。
でも、知らない相手に自分の子のかわいさを伝えるときは、それを親の目線から一歩退き、一般的な子どものかわいさとして受け止められる自然な距離まで、退く必要がある。
このちょっとせつない、胸が痛くなる事実も、受け止める必要が、あるのです。
親バカフィルターの向こう側に踏み出そう
さて、ここで一旦深呼吸をしましょう。
自分と見ているのと同じように、他の誰かが自分の子をかわいいと思ってくれることはない。
親バカフィルターは、自分が誰よりも自分の子を愛しているという証だからこそ、他の人と分かち合うことはできない。
そんなふうに言われると、心にぽっかり穴が開いて、きゅーんと締め付けられるような、苦しい感じがします。
くっ…、このかわいさが世界に通じないなんて…(苦悶)
でも、世界中の誰よりも自分こそが愛していると言える人がいること。
それは、ちょっとせつないけれど、しあわせなことでもあるはずです。
ここを出発点に、次回4日目(午後)では、具体的に他の人と分かち合える形で、子ども写真を魅力的に撮影する距離感のとり方を書いていきます。
自分の子が世界で一番かわいいと思える、親バカフィルターに花束を…!
しんどい話、お付き合いいただき、ありがとうございました!