想うこと

大切なことは、みんな写真が教えてくれた。

使ってない古いスマホをカメラとして子どもに貸して遊ぶ今日この頃です。

前回の投稿から2ヶ月。

読んだ人の心がふわっと明るく、軽くなるような内容を書く、

そんな想いで投稿をしてきたなか、緊急事態と宣言がされました。
どんなことなら投稿できるだろう、と書こうとしては取り下げているうちに、5月になってしまいました。

そんななか気づかされたのは、この新しい日常は、自分や配偶者の働き方や業種、住んでいる地域や家族構成によって、見えている風景や起きている変化が、ひとりひとり違うということです。

タンポポだって一気に遠くまで飛ばされるタネもあれば、飛び立つなりこんなアクロバットな事件に巻き込まれるタネもある。

ゆっくり過ごせる貴重な機会と自宅で過ごす人もあれば、自分の役目を果たそうと懸命に働く人もいること。

一緒にいることで助けになると感じる家族もいれば、逆に距離を置きたい時期だったので苦しく感じている、という家族もいること。

見た目上同じ状況であってすら、感じている感情や日々の過ごし方はけして同じではありません。

同じ家庭でも、3月と4月とではまるで状況が変わった場合もあるし、状況は同じでも長く続くことで心のありようが変わるということもあります。

うちも3月は学校から14時までは自宅にいるようにという通知があったので、午前は勉強をして、おやつを食べてから外遊びに行っていました。

子ども達から自然発生した学校ごっこ、制服はなぜかドレス。
大人には見えない架空のクラスメイトも五人くらいいました 笑

4月は緊急事態宣言が発令され、公園で遊びにくい雰囲気と、休校中でしかできないことをしよう、という気持ちが強くなり、

数日おきに、早朝朝日を見に、サンドイッチ持参で高台に登って朝食をとり、そこから続く山道を散歩して帰る、という生活をしていました。

花も草も朝露がきれいでした。今はもう葉っぱと虫たちの天国に。

仕事は3月、4月分はすべてキャンセル、ミンカのイベントも企画があったのですが、告知前に中止となり、今後も予定はありません。

道を歩けば遊びが生まれる。バッグはバス、くつは車だそうです。

「これからどうなるのかな」という未来を阻む霧に焦点を合わせようとすると、何もよく見えないから、後ろを振り返って「早く元に戻るといいね」となにげなく口から出ます。

でも、心を静かにして、理想の状態を思い描くと、この数ヶ月の経験を通して、心地よい過ごし方はゆっくりと変化していて、今となってはそれは必ずしも「元の生活」ではないことにも気づきます。

毎日を決まったスケジュールで過ごす暮らしから、感染拡大状況や天気、家族の体調などの環境や今の心地よさを基準に、その時々でどうするかを決める生活への変化。

それは、明らかに今までとは違う視点での暮らしで、意識を向けている焦点も違いました。

たとえばこの、ハハコグサを主役にした写真。写真を撮る次女は脇役。人のいる気配程度の意味。

視点と焦点が変わることで、世界の見え方が変わる。

これは、写真を撮ることで実感してきた世界観のひとつです。

どの高さにカメラを上げ、どこに光を当て、どんな範囲が写るレンズを選び、どのくらいの距離をとり、どの角度から眺め、どのタイミングでシャッターを切るか。

その組み合わせで、写真の見た目は果てしなく違うものになります。

つまり、同じ時間、同じ場所で同じものを撮る場合でも、その可能性は無限大なのです。

写真は日本語で「真実」を「写す」と書きます。
実際、写真はさまざまな証拠として使われています。

でも、同じ現実を前にして、「真実」に「無限大」の可能性があるなら、「正しい情報」を集めて証拠を捉えたとしても、そこから感じ取れる真実は、「超個人的」なものです。

でも後ろの人形を主役にして目の前の花を「前ボケ」として飾りにすることもできる。
ちなみに、写っているあちらの娘から見ると、わたしは邪魔です 笑

たとえば、ある人はジュースの缶を真横から撮ってカラフルな長方形として撮り、別の人は真上から撮って銀色の円として撮る。どちらも嘘ではないですが、どちらかだけが正しいわけでもありません。

いま、感染症による影響や反応を通して、わたしたちはひとりひとり経験している真実は違うということに気づかされています。

一方で、「今こそ一丸になって」と、ひとつの考え方に「統一」しようという動きもあります。

デマに流されず「正しく恐れる」ようにとも言われます。

でも、未知のウイルスに対する「正しい恐れ方」なんてあるのでしょうか。
写真から気づかされる世界観でいうなら、未知のウイルスはその他の危険との比べ方や、関連するリスクは人によって違うので、統一できるたった1つの正しい恐れ方は存在しないことになります。

富士山はひとつだけど、正しい富士山の撮り方はないように。。。

何かを撮るときに、たったひとつの「正しい写真」がないということからわかるのは、未知のウイルスに対しても、誰にとっても通じる正しい行動はないということです。

特定の国レベルで見たとき、世界レベルで見たとき、と視点や範囲を決めたとしても、具体的に「いつのどんな状態を目指すのか」で「正しい行動」は変わるので、変わらない正しさはやっぱりありません。

それは、インパクトにも欠けるつまらない答えです。でも、自分の感覚を研ぎ澄まし、自分の環境や家族の状況をよく「観察」し、その時々で「わたしたちなりの今できること」を見出す作業は、写真を撮る面白さと同じものです。

対象となるものを複数の視点から「観察」して、最も感じたい現実に「意識を置く」、そしてそこにつながる「行動」をすること。

プロじゃない、子どもが作ったおだんごでも、写真で見るより食べる方が「おいしい」。

これは、写真を撮るときに必要な3つのステップです。この3つに気づかず「普遍的ないい写真の撮り方」を探している限り、自分の心の底から納得する写真は撮れません。流行に流されすぎたり、逆にしっくりきた1つの方法にしがみつくことで、美しいと感じられる感性が狭くなってしまうことがあります。

同じように、「正しい情報」を探しているうちは、自分が心の底から満足できる幸せを味わうこともできません。たまたまその情報が自分にできることとぴったり合ったとしても、時間とともにズレてしまえば一致した行動が取れない自分に罪悪感を感じたり、違う情報を信じる人に敵意を感じやすくなります。

何を感じて生きるかが自由なら、わたしは自分が納得できる写真を手渡し、美しいと感じる世界は広い方を選びたいですし、罪悪感や敵意が少ない道を歩きたいです。

そして、同じように感じる人がいるなら、写真やカメラをそうした自分の道を選ぶための道具として使いながら趣味として、日々をより満ちたりたものにする使い方を分かち合って生きたいと思っています。

イベントがお休みの分、こんな風に写真の撮り方を通してちょっと世界の見え方が変わる、カメラを新しい生活様式に生かす、そんな記事をアップして行きますので、facebookページで更新チェックしてもらえたらうれしいです。

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長文を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
今日生まれる笑顔が昨日より増えることを祈って☆

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